弓道変遷史
僕ら弓道部員なわけで、体配だの狙いだのにはそれなりに薀蓄言えるわけですが、「弓」そのものに関しての知識ってあまりないよね? そこで俺は少し学んでみたんですよ。いや、これ書いたのは壱年の後期で、文化人類学のレポートだったんで、「日本文化と現在言われているものにも、実は日本古来のものではないことがある。そうしたものが日本にナショナライズされていく過程を調べよ」とかいう課題だったのだけど、まあ、優もらえたんで、そんな悪くはなかったかなと。暇なときに読んでみとくれ。
written by 二代目
「弓道の変遷」
1.原始〜文明初期の弓
まず、「弓」そのものには文化というものは存在しない。それは「弓」が、個別の文化の形成以前、石器時代のころから、遠方の獣を狩るための狩猟の道具として存在していたからだ。日本でも、約10万年前の先縄文時代のものとされる石の鏃が発掘されている。これらに文化間の差異を求めることはできない。だがやがて文化の形成とともに発達した創世神話において、弓は各文化の様々な特徴と同様に、その文化の創始者が作りたもうたものとされている。中国における黄帝などがその代表だ。日本神話においても、神武天皇の持っていた弓の先に白鷹が舞い降りて、大和の歴史が始まったという説話は有名である。ただ現在、中国やヨーロッパの多数者階層で、弓を、矢を放つ武器以上のものと捉えるという風習はあまり見受けられない。それが日本の弓道との大きな差である。今度はその理由を、弓の、日本と大陸との形状の差から考察する。
2.日本の弓と大陸の弓
日本と大陸の弓の間には、一目でわかる大きな違いがある。それは長さと対称性である。中国を代表とする大陸の弓は、古来、握りの部分を弓の中心部に置き、その長さも1メートルから1.5メートルというところである。弓の力学ベクトルが簡単に前方に集中でき、また、縦横どちらにも構えやすいと言う長所がある。これに対し日本の弓は、明らかに上下非対称で、握りの部分は上から約三分の二のところに位置している。長さも7尺三寸(約2.2メートル)と長く、持ち運びに手軽な長さではない。なぜ、日本の弓はこのように不便な形なのだろう。日本の文化や技術は、多く大陸からの流用だった。事実、弓の射法や射手の装備つまり射具には、大陸式のものが多く使われた。だが弓の形状そのものは、尖石遺跡の線刻画に見られるように、縄文時代から中央より下の位置で握るという形から変化していない。この疑問には、古代日本は、「大陸文化」に対する「南方文化」圏に位置していたからだ、という説によってひとつの回答を得られる。南方、すなわちインドネシア、メラネシア、ポリネシアなどの太平洋諸島の弓は、たいがいが長弓で、丸木の直弓である。直弓と言うのは大陸の彎弓に対義するもので、弦を外したときに反対側に反り返らないものを言う。これも後に述べるが、この弓の形式も古代日本に通じるものだった。太平洋諸島に端を発し、遠くアッシリア文明にもつながるともいわれるこの文化圏の特徴は、弓に神が宿るとし、その長大な形状に神性を重ねるというものであった。
巫女によって国家統制が行われた古代日本と同様、南方文化圏では髑髏崇拝や精霊信仰など、シャーマニズムが支配的だ。そしてその祭祀にはたびたび弓箭が登場する。このように、原始日本人には、弓に対する不可侵的な信仰心があったのであり、その潜在的な尊崇感が、後世、機能的な大陸式の弓が伝播してきても、その形状を変化させなかったことにつながるのだ、と推測されるのである。
3.和弓の構造上の変化
ところで、現在発掘されている最古の弓は、縄文時代晩期の是川遺跡のもので、白木や漆塗りがされたもの数張りである。これらの弓は長さ0.73〜1.6メートルであるが、破損が激しいため実際の長さは確認が取れない。唐古や登呂などの弥生時代の出土品は、すでに2メートルを超えている。以来、歴史を下って正倉院の宝物殿や「東大寺献物帳」「春日大社宝物」などで調べられる奈良時代の弓なども、基本的には2メートル余が歴史的には続く。戦陣では大陸風に長さを切り詰めたものも考案されたが、それ以外、現在までいたる7尺3寸の基本は代わっていない。しかし、その内部構造には、前述の通り、大きな変化が見られた。弥生時代のものは南方文化圏と同様、硬い梓や槻の幹を削った、丸木の直弓であった。しかしこれは耐久性や威力において難がある。そこで平安時代の中期頃から、丸木の外側に竹を張り付ける「伏竹弓」が考案された。これによって、これまでにない弾性が生み出された。しかしこれは木と竹の耐久性の差から故障が多く、木の部分が内側に折れてしまう欠点があった。その結果、続いて考え出されたのが「三枚打弓」であった。平安時代末期のことである。木の両側に竹を張ることで、耐久性がより補強され、実用性の高いものになった。その後室町になると、木は細く切り抜き、内外両側と木の左右側面にも竹を仕込む「四方竹弓」が生み出されるようになる。 現在主流である、中心部を木から向かい合わせの細い竹にした「籤弓」は、その誕生時期は定かではないが、江戸初期には製法が確認されていた。おそらく戦国動乱における技術革新の一端であろう。
このように弓の内部構造は時代を経て、竹林王国日本の風土に合ったようにナショナライズされていったのである。 外部構造にも変化があった。直弓から彎弓への変化である。この変化がいつ頃現れたか、正確な確認は取れていない。しかし、外側に反っている弓を内側に反り返らせたままにしておくには、相当な弾力と耐久性が必要であるから、弓に竹を用いた平安時代ごろからであることは間違いないだろう。 それに、そう考えられるもう一つの理由がある。平安時代は、大陸からの輸入技術がいわばブームだったのだ。平安京が長安の都市設計を元に築かれたことなどでもわかる。前述の、射法や射具の大陸との相似も、この頃が顕著である。その一環として弓の彎弓化が考えられても、まったくおかしいことではないだろう。
4.日本史の中の弓
ここで、弓自体の話は止めにし、歴史の中に弓を見ることで、その変質から弓道の日本らしさを追求する。 だが、それを調べていくと、先述した「大陸ブーム」に行き着いてしまう。それをもって日本らしさの象徴 と表現できるのだろうかという疑問も残るが、神道・儒教その他の宗教や思想が渾然となって一体化することに、「雑種文化」日本を認められると考えられる。したがって、弓道の変遷も日本文化へのナショナライズと考えて問題ない。奈良時代以降、宮廷文化が栄えるとともに、武芸もまた儀式として制度化されるに至った。中心になったのが、古来より受け継がれている馬術や弓術である。その儀式には多く中国の影響が見られ、射ひとつとっても「これ以って徳行を見るべし」「射は仁の道なり」(『礼記』射義編)と、道徳的観念が付与される中国の特質を合わせたものであった。 天覧試合である射礼(じゃらい)や、後世の流鏑馬の原型となる騎射(うまゆみ)などである。また弦の響きを持って魔を払う、鳴弦の儀式もこのころ起きた。優雅な貴族文化の一端を担ったこれらの儀式だが、やがて形骸化し廃れていった。
平安中期から各地で武士の台頭が見られ、公家から武家への移行が始まったからである。これは、儀式よりも、実践的な技術の追求に弓の意義が推移していくことを意味する。弓が合成品になったのもこの頃で、その張りは強弓になり、五人掛かりでようやく弦をかけられるような弓を引くつわものもいた。しかし同時に、弓の腕で名が立つことは誇り、という武士道思想も形成され、完璧な武家社会の鎌倉時代に至って昇華されるのである。
その鎌倉時代、さまざまな武芸が奨励された。これは上代の儀礼的なものよりも実践を想定した傾向が見られる。そしてその練達者は世に名を知らしめるという武士の栄達心を刺激し、多くの者がその修練に務めた。その一つが流鏑馬である。鎌倉時代の奉納武技はもっぱらこの流鏑馬が中心だった。その射手は立派な装束に身を包み、名誉ある本番に挑んだのである。その他名前だけ挙げれば、笠懸・犬追物・巻狩などがこの時代に考案された。特徴は、その全てが騎射形式のものだったということだ。武家社会らしい一面である。
室町に至ると、現在まで続く弓の諸流派が誕生する。小笠原・武田・日置などである。最も流派といっても、当時は師弟関係の後に技術を伝承するような形式ではなく、単に弓の腕に優れた家、という意味合いが強かった。また弓道世界では「射の日置、礼の小笠原」と呼ばれるように、日置には実利的な、小笠原には儀礼的な面が多く見られた。
そして室町末期の戦乱の後、徳川350年の太平が訪れ、武芸にも大きな変化が訪れる。実利的な追求が再び追いやられ、儒教精神と調和し、農工商の上に立つ士としての心得を含んだ「士道」への変遷が起きたのである。弓の世界においても、騎射中心の戦闘技術の色合いが強い「弓術」から、礼や精神修養に重きをおいた「弓道」へと移り変わっていったのである。また俗に言う「武芸百般」の第一に弓は置かれ、その内面的価値は高められていった。と同時に、武士の勇名を馳せる競技として、三十三間堂の通し矢競技も開かれ、藩の名を背負って多くの射手が競い合った。
だが再び実利武術が求められた幕末の動乱期には、より高性能な射撃武器、銃砲が配備され、弓は戦場での利用価値を失っていく。
再び日の目を見るのは、維新後の明治28年、京都に大日本武徳会が創設されてからで、このころには武器としての利は失われ、いわゆる「武道の精神修練的価値」が着目され、励行されたのである。この頃から弓道の競技形式も現在に通じる形となり、その精神が帝国主義に利用されたとして第二次大戦後、GHQの指示で武徳会が解散させられた後も弓道人気は根強く、現在の民主的・全国的な弓道組織「財団法人全日本弓道連盟」が誕生するに至ったのである。
5.結論
こうして見てきたように、弓道は、時には実利主義に走る時代も見られたが、その底辺には神道・儒教思想、果てには古代のシャーマン信仰にも深い関わりがあることが伺える。日本の文化そのものが、さまざまな文化の長所を取り入れた「雑種」であると表現される以上、まさに日本らしい文化であろう。幕末において西洋近代化の波に押され、 衰退の呈を見せるのも、日本的、と呼ばれるもの一般に通じるものがある。と同時に、本文では詳しく触れなかったが、平安期に用いられた、鞆(とも)という、左手内側を弦の衝撃から守るアームガードのようなものが現在は残っていないことにも着目したい。これは弓道の発展の中で、押す左手に微妙な捻りをくわえることで、放たれた弦の力を巧みに逃がす「弓返り」という技術が編み出された結果だとされる。これは、大陸はおろか南方文化圏にも見られない、和弓ならではの特質なのである。南方の弓は直弓であるから、弦が腕に当たっても痛くない。大陸の弓は弦が当たることを前提に、痛めないように保護している。その両者の特質を併せた果てに、新たな技術を生み出す。これこそ、雑種文化の本領発揮と言うところだろう。もう、おなかいっぱい